ピアノと幻想即興曲

幻想即興曲


子供の頃から,音楽は好きなほうだったと思います.小学校の帰りに,笛やメロディアンなんかを道すがらに演奏しながら友達に歌わせるという,今はやりの(?)青空カラオケのようなことをしていた覚えがあります.思えば,なかなかに近所迷惑だったかも….それから,わたし自身は覚えてないのですが,小学校に入ったころに「合唱隊に入りたい」とか言ったそうです.さして音楽に縁のある家庭でもなく,そんなこと言われても親もどーしたらいいか分からなかったのでしょう.結局それは実現しなかったそうです.その後中学生の頃までは,せいぜい笛吹き童子みたいなことをする程度にしか,音楽とは関わりはありませんでした.

中学校に入ってすぐの頃,偶然にショパンの「幻想即興曲」の楽譜を目にすることがありました.この曲は楽譜を見るとわかりますが,右手は一見メチャクチャな16分音符の羅列,左手と右手のリズムはあってない,テンポは超高速,とまあ見た目に激しい曲だったりします.当時はピアノ曲や作曲者の知識はカケラもなく,この激しい譜面だけみて勝手に「これは前衛的音楽で演奏技術至上主義の曲に違いない」とか決め付けてしまいました.それでも,いったいこの譜面からどんな音楽が出てくるのか興味があり,家に置いてあった鍵盤で最初の数小節だけ右手でトレースしてみたりはしてました.

そのさらに1年ほど後,あるとき学校の音楽室を掃除する当番になりました.そのときは掃除が少し早めに終わって,音楽室のグランドピアノのあたりでみんなで雑談していたと思います.友達が冗談で正露丸のテーマ曲やらラーメン屋のチャルメラやらを,人差し指1本で弾いて周囲を笑わせたりしてました.さらに,小学生の頃にピアノを習っていたという男の子が来てエリーゼのためにの冒頭をちょろちょろっと弾いてみせたりもしました.男子生徒がピアノを弾くこと自体珍しかったのと,マトモな曲を弾いたのが彼だけだったので,ちょっと注目を集めたりしてました.

そして,何故か皆の視線がこちらのほうへ….彼らはわたしがメロディアンとか弾きまくっていたのは知っていたので,それは何か弾いて笑わせるかなにかしてという暗黙の要求でした.でも,メロディアンはともかく,両手で(?)弾ける曲といえば「ねこふんじゃった」くらいしかありません,しかも,それはすでに誰かが演奏済み,仕方ないので,ちょっとだけ覚えていた幻想即興曲の右手パート数小節をいい加減に弾いてみせました.当然,みんなが知らない曲だったので,周りは微妙な反応でした.ところが,これに唯一敏感に反応したのがなんと音楽の先生でした.遠くにいたのに,やにわに近づいてきて「それ弾けるの?」とか聞かれるじゃないですか.あわてて「いえ,全然…」と答えると,先生は「この曲好きなのよね〜」といいながらピアノに向かいました.そして,いきなりどど〜っと怒涛のように,しかも軽々と幻想即興曲を弾いてしまいました.

この,初めて幻想即興曲の演奏を(しかも生で)聴いた衝撃は,他に例えようがありません.多分,そのときこの人のごとく人生が225度くらいは曲がったような気がします.あの一見メチャクチャな楽譜からこれだけ豪快で,音楽性の高い曲が生み出されるとは,まさに目から鱗が落ちる,いや耳からバナナが抜ける思いでした.そしてこの時,ピアノが弾ける=幻想即興曲が弾ける,というナゾの定義が心に刻まれてしまったのです(多分).